昭和45年9月20日 朝の御理解



 御神訓一     障子一重がままならぬ人の身ぞ 。



 信心をさせて頂いて、この障子一重がままならぬ人の身と教えて下さる。 ここのところが分からせて頂く、ここのところが本当に分からせて頂くというところから、天地が自由になるというほどしのおかげが頂けて来るのです。 障子一重がままならぬ人の身ぞと。
お互いの難儀と言うのが、あのぉ、自分で出来るという、そういう考え方がこの難儀を作って行くのですよね。  それは、俺がという我が出てくるからです、ね。 
 
障子一重がままならぬ人の身という事が分かったら、もうそこに大きな力というか、大きな働きというか、そういう働き、力に委ね任せるという事になりますから、それはね、もう無限の働きというか、無限の力と一体になる、一緒になる。 ですから、天地が自由になるというほどしのおかげを受けられる。 信心をさせて頂いて、本気でそこのところが分からせて頂くけいこを様々な体験を通して自分のものにして行くという事。 本当に障子一重がままならぬ人なのである。

 人間が自分で自分の苦労を、難儀を作って行く。 昨日、ある方がお参りをして見え、こういうお知らせを頂いたとこう言う。 白波5人男という。 ご承知でしょうかね、お芝居でやりますよね、白波5人男と。 一番始めが自分ところの主人、そこに、これは合楽の白波5人男と、ね。 白波というのはお芝居でやる白波というのは泥棒という意味なんです。 白波者というのはね、泥棒の事です。 

 ね、一本大紋とか、弁天小僧とかていうのが出るあのお芝居です、白波5人男。  泥棒ばかりが5人、えらいその、お芝居の上では人気のある泥棒なんですね。 その、そういうお芝居なんです。 合楽で白波5人男、だれだれ、ひとつ想像してみてご覧なさい、ははは。 どういう事かと言うとね、このおかげをおかげと感じていないと、ね。 とりわけ神様のおかげを頂きながら、おかげと思ってない。 自分の働き、自分の力でここまで成し遂げてきたと、こう思うておる。

 なるほどその中にはですね、こっち書いておいたけれど、さぁこれを、名前を上げる訳にも参りませんけれどもね、一人一人の事を思うてみてから、なるほどこの人達は白波5人男だなぁと私が思うんです。 まぁだここで信心を頂いておる人が、ん~、二人はあるんですね。 信者を止めてしまっておる人が3人、まぁ言うなら合楽で総代的おかげを受けた、え~人達です。 ところがね、なるほどそのぉ、まぁ言うなら仕事も大変順調で、まぁ言うなら大変儲けだした。 ところがその、おかげをおかげと思うとらん。 

 まぁ、一人なら例をとると、まぁその、家内やら嫁やら参ってまいります。 合楽合楽ち言うち参ってから、合楽の金光様が草一本とってやってばすってかというような事を平気で言いよる。 本当にここのおかげの元というのを、このようなおかげを受けておるのに、ね。 そういうヤバイ人達です。 いわゆる、おかげ泥棒なんです、ね。 なるほど、白波がつくハズだとこう思います。 ところがね、もうそういう人達ほど、もう家庭的にもう本当に金はいらん、金は敵のごと思うとさえ言われるような難儀が続いておる事です。

 お金やら物やら、商売が繁盛しとる、自由が都合良う行きよるという事だけじゃいかん事が分かりますねぇ。 あれほどしのおかげを頂いた事を、自分のやりようが良かったからここまで立派な家も出来たし、立派な大きな事業もやれるようになった、なるほどそれはその通りです。  けれどもその、苦しみというものは、またこれは、まぁ言うならば親孝、兄弟の中にでも、血で血を洗うような難儀な中を通っておるという事です、ね。

 お互いですね、本当にどう、自分というものが一心におすがりしよう願いをして、おかげを受けて、ね、どうして自分の力でここまで出来た、こういう事が出来たんだという風に思うかと言うとです、いわゆる信心が分っていなかった、いや障子一重がままならぬ人の身であるというような事を全然分かってなかったという事から生まれてくるのです。 
ね、俺がこの言えを建てたっつぉと、俺がこの商売を始めて都合良く行くごつなったつぉと、こういう訳なんです、ね。

 障子一重がままならぬ人の身という事は、いよいよ我無力であるという事の事実をね、本当にもうあらゆる角度から嫌というほど分からせて頂く。 そこでどういう事になるかと言うと、神様のおかげを頂く、神様のおかげを頂かなければ立ち行かん自分だという事になる。 神様のおかげを頂かなければ立ち行かん。 まぁだ私が元気な間は立ち行く、というような考え方じゃない訳です、ねぇ。 神様のおかげを頂かなければ立ち行かん、という、そういう自覚が出来て来なければ、ね。

 自分はおかげ泥棒とは思うてない、感じていない。 ね、そこを気付かせて頂いてです、おかげをおかげと悟らせてもろうて、自分の財産、自分の働きによってこれが出来たといった思い方を改めて、本当にそこのところのお詫びが出来、神様のおかげを頂かなければ立ち行かんという信心に、え~気付かせて頂き、改まらせて頂いたら、そこからおかげになって来るだろうと思うけれども、そこがなかなか分からん。

 ね、こういう難儀な事になるのは、あれがあぁだから、これがこうだからと理由、前炎というものをそこに置いておる。 おかげ泥棒である、その例えば、言うならば囚われの苦しみと言うか、寒気の苦しみというか、または逃げ回っておる苦しみというか。 そういう苦しみが現在の難儀になっておるのだけれども、それを気付かない。 ね、いくらこの人達がばたぐろたっちゃ、そこに基づかない限りおかげにならんと思うですね。

 おかげ泥棒という事は、良う昔から言われたもんです。 ね、おかげを頂いて、ね、そしてそのまま信心を止めたり。おかげを頂いて、おかげをおかげとも思わなかったり、そういう人達の事を言うのです。 え~白波5人男なんて言うのは、ここは、本当に合楽的な表現だと思いますね。 合楽にもそういう、言うならばお互いがそういう事になってはならない、一つのいけないというか、悪い見本といったようなものが、ここに、作っておって下さる訳ですから、ね。 ですからお互いが、どうでも一つおかげを頂かなければならん。  おかげを頂くと言うても、ね、自分にどのような才があっても技術があっても、力があっても、ね、神様のおかげを頂かなければ立ち行かんという信心が、いわば土台となっておかげを受けて行かなければ、ね。

 皆さんもこれから、言うならば色んな意味で家も立派に建ちあげて行かなきゃならない、財産も、一つ貯め上げて行かなければならない。 色んな事の出来れる、いわばおかげを頂かなければならない、ね。 そのおかげを頂いた暁にです、暁に、言うならば白波が付くような事になってはならないと。 本当に信心も出来んのに、このようなおかげを頂いてと。 信心も出来んのに、にという、そういうやはり自覚が出来て来るところに、いよいよその財産に光を、財産、ねすべてのおかげに光が伴うて来ると。

 ね、信心も出来んのにこのようなおかげを受けてというところに、いわゆる謙虚な信心、性格態度というものが生まれてくると、ね。 だからそこんところをです、言うならば、言うならもう嫌というほど体験しておかなきゃいけん。 そこをしっかり分からにゃいけん、理屈を聞きますと障子一重がままならぬ人の身という事はすぐ分かる。 ね、そこでです、こちらがそういう自分の力がないというその、いうところからです、ね、神様におすがりをしておかげを受けると。  そこから、いわゆる神様の、いわばおかげを実感して、なるほど神様のおかげを頂かなければ出来んのだなという、そのおかげを面化してもらう。

 それが徹底、おかげを頂けて来るところにです、それこそ天地が自由になるほどしのおかげが受けられる。言うなら、自由自在なおかげが受けられる。 ね、だからお徳を受けるというその、根本になるものは、はぁいわゆる障子一重がままならぬ人の身というほどしの事が本当に分かったところから頂けるものですね。 自分の知恵やら力ではどうにも出来ない、ね。

 まぁ、これは私の20何年前の信心ですね、まだお商売をさせてもらったり、またはお商売が出来なくなって、まぁ一生懸命信心しよる、取り組んでおった時です。 ね、もう本当にいよいよ嫌というほど自分に力がない、自分が無力だという事を悟らざるを得ない、いわば羽目になって行く、ね。 ところがね、この事だけはと例えて言うと、神様がお喜び頂けれるだろうと思うような事柄の上には神様がハッキリしたおかげを見せて下さった。
これは自分の考えじゃない、神様がお喜び頂けれるような事ならば、神様がこんなおかげを下さるという体験が生まれてきた。

 例えば、教会の御大祭といったような時に神様の、え~例えばお供えならお供えの事をお願いをさせて頂いておると、それだけは神様はきちっとおかげを下さった。 毎月御本部参拝をさせて頂きましたから、月参り、親先生のお供をして毎月参らせてもらう、ね。
もうその事だけには神様がもう間違いなくおかげを下さった、絶対、ね。 もうそりゃぁ何とも言えん送り合わせの中におかげを下さった。

 ね、そこからですね、私は神様の、言うならば神様にお喜び頂けれる自分自身というものになる事に務めさえすればおかげは受けられるという事が分ってきた。 その第一は、もう自分では何も出来ない、神様のおかげを頂かなければ御本部参拝も出来ない。 神様のおかげを頂かなければ御大祭のお供え一つ出来ない。 それを、それ以前の私はどういう事だったかと言うとね、私がお供えをしよると。 ね、それ以前の私は、私がこげんして御本部参拝をしよると、ね。

 ですからね、その考えて下さい、言うなら御本部参拝がここからも、たくさんおかげを頂きますが、これは御本部参拝自分がしよる段なかじゃろうか、自分が「    」してお参りしよると思うておるのじゃなかろうかと、一つ思うてみなきゃいけません。 大祭も「近づきよらん?」、ね、神様のおかげを頂かんでん自分の力で、自分の持っとるもんで、え~お供えをしようと思いよりゃぁせんじゃろうかと。 

 なるほど、なら皆さんの物と名がついておるおかげであり、物であるかも知れません。 けれどもね、それだけだんだん成長していった信心では、結局言うならおかげを頂きますと、自分の財産であり、ね、俺がこうしたからこうなったという事になりかけない。 結局、白波5人男じゃないけれども、白波が頭につくような結果になりましょう。 おかげを頂いて、かえって苦しみがそれに伴うて来るような結果になるでしょう。 まぁだここに、御神縁を頂いておかげ頂いてある人ですよ、この5人男は。

 ね、ですからね、いかに本当に例えばなるほど自分の金で、自分が御本部参拝をするというような考え方がね、間違っておるかという事を一つ本気で分からにゃいかんです。 本当に神様のおかげでお参りさせて頂くんだと。 神様のおかげで御用をさせて頂くのだと。
それをね、色々な私は、角度から自分に力がない事を一つ悟らせてもろうて、ね、おかげを頂いて参ります時に自分が頂いておるというか、扱っておると言うか、財産にね、まぁ言うならば全ての物に光が伴う事になります。

 まぁだ自分が、自分の力でこうしよる、ああしよると思うものが残っておるならばですね、あなた方がこれから先どがしこ儲けだして「そったっちゃ?」、必ずどこからかです、我が出てきます。 そすと、その我の為にいわば苦しみ抜かなければなりません、もう絶対です。 ね、信心させて頂いて一番尊い事は、本当に神様のおかげで、言うなら信心も出来ませんのにこのようなおかげを頂いてと、お金や物が親善関係が健康が、全ての物が、
に恵まれる生活。 そういう生活を私共は本当の有り難い生活だと思うております。

 それが少しでも自分の我が出て参りますと、その我がです、ね、いわば白波がつくような結果になりましてね、そこがです、神様がお気付を下さる事の為に戒めて下さる。 その苦しみが途端の苦しみなんです。 ね、お金も物も例えばあるけれども、こういう難儀な苦しみというものが伴うておる。 一言おかげを頂いたかと思うても、また次の苦しみが必ず伴うておる、そこで本当に自分がですね、自分の力じゃなかった、神様のおかげで、おかげを受けておったんだと気付かせて頂いて、そこから神恩奉者の生活が出来た。

 信心も出来んのにこのようなおかげを頂いて勿体無いというようなですね、生活にならせられて来るところに、ね、いわゆる神様の、いわば本当な事が分からせて頂く事によってです、ね。 いわゆる本当のおかげが頂いて来ると、ね。 そして願えば天地が自由になるほどしのおかげも与えられる事になってくるのです、ね。 その根本になるものは、いわゆるいよいよ自分が無力であるという事を知る事です、ね。

 私共がそこんところをですね、少し分かった、いわば分からせられて来た、ね。 自分にまぁだ、調子の良い時には自分が御本部参拝をしたり、自分がお供えをしたり、それこそお参りをさせて頂きよるんだ、言うならばさせて頂きよるという、口では言いながら自分我が出ておった。 ね、ところがいよいよ、一切に出来なくなった、ね、またお金も、もう無くなった。 ね、それでも御大祭とありゃぁ、どうかして御用を頂きたいという一念、お役に立ちたいという一念。 この事はもう絶対神様が喜んで下さると信じて月参りをさせて頂いておるんですからね、御本部に。

 ですから、これだけはどんな事があってもお許しを頂かなければという一念。 それがね、もう物の見事にギリギリの、いわば線のところでおかげをいつも蒙っておった。 そこで、分からせて頂いたのは、なるほど神様のおかげを頂かなければ立ちゆかんのだという事がわかった。 ね、そこからどんなに、ならお金が自由になるほどしのおかげを頂いても、物が自由になるほどしのおかげを頂いてもです、これが自分の知恵、力、才覚で自由になっとるとは思われない。 神様のおかげでこう在らされておるのだ、神様のおかげで立ち行ったおるのだという思いが誰よりも強くなってきた。

 ね、そこに私の前には、もう私の行く手に難儀はないとまで思わせて頂けれるほどしのおかげを頂けて行ったと。 ね、言うなら天地が自由になるほどしのおかげまで神様はおかげを下さる、そういうおかげを見せて下さるほどしにおかげを頂いて来た。 だから、そういうけいこをする為にもね、事、ここだけは、神様がこれなら喜んで下さらんハズはないと見極めがついた事に対してはですね、一つ本気で真心で願うてごらんなさい、絶対
おかげを下さるですから。

 ね、おかげを頂いてです、始めてとても自分では出来そうにもなかった事が出来る事が体験させられるところから、いわゆる神様のおかげという事が分かる。 そこから全ての事、自分で出来とると思うておる事柄の中にはです、自分で出来るのじゃない、神様のおかげを頂かなければ立ちゆかんのだと。 神様のおかげを頂かなければ人間の幸福というものは有り得ないんだという思い込みが出来て参りますところに、すべての事が整うてくる。

 なるほどだんだん、商売は発展してまいりまして、事業が出来る。  繁盛して参りまして、ね、はぁ神様のおかげでこれだけの事が出来る、おかげを頂いてと言うておっても、そこに自分の知恵、力が入って参ったりいたしますとです、自分のやり方が良いからという事になってまいりますと、我が出る。 だからその事を例えば繁盛になっておりましても、その以外な事でです、ね、神様が言うならば、こらこらおかげ泥棒になりよりゃせんかというお気付がいつの場合でも苦しみになって伴うてくる。 

 私はこの、ここに私が、その方が頂いておられる白波5人男を全部見せて頂いて、改めておかげ泥棒という事がどういう事になるかという事をですね、いや元ここに御神縁を頂いておられる方達ばっかりですよ。 ね、けれどもどういう、はぁとても本当に、なら金やら家内、家族や子供が参って来てその苦しみをここでお届けを願われるのをここで聞かせて頂いてです、ほんなこて、こげな苦しみがあるならお金はいらんち言うごたろうと、こう思うです。 そんならいっちょそこに行けば、ほんに改めたり、分かったり、ね、信心のいわば本当なところの、神様のおかげでここまで、こういうおかげを受けておるんだと分って、お詫びをして、お礼を申し上げるような心になったら、さぞ良かろうけれども、それがなかなか分からん。

 それを分からせまいとする、それが我なのです。 俺がここまでやってきたっちゃけん、こんならどうかして、そのやるというような事にまでなってくる。 それはもう実際、恐ろしいごたるですよ、ね。 ですから本当に分かるところが分からせて頂けてね、その分からせて頂くという事が、体験を通して分からせて頂いて、もう嫌というほどにです、神様のおかげを頂かなければ立ちゆかんのだと、本当に神様の仰っしゃる通り人間というものは実際は無力な者だと。 なるほど人間という者は、言うならばお月様のようなもので、お月様自体には、ね、一つも光というものはないのだと、ね。

 太陽の恩恵を受けなければ光は出ないものであるという事を分からせて頂く時です、ね。
こがしこ設けていたから、はぁあればやっぱねぇち言うて、なんかで言えない事になってくるんですよ。 ですから、こと、ここ、これだけは神様は喜んで下さると信心しよると分かる事があるでしょうが。 もうその、大祭という時に、これはその人なりの事でしょうけれども、どうでもこうでも、どんこんならん事は神様が知っちゃるけんでと、いう考え方がもうすでに我なんです、ね。

 だから神様のお喜び頂けれる事によってです、なるほど神様がお喜び頂ける事にならこのようなおかげを見せて下さるんだと。 御本部参拝もそうです、自分が参ろうなどという時にはです、それは例えお参りをしても自分の我力で参っておるようなものですから、おかげにならんて。 ね、だから神様のおかげでお参りさせて頂くんだと、ね、だから本当に自分の懐具合なら懐具合の悪い時なら悪い時ほど、その一念を燃やさせて頂くところから、はぁ神様がこのようなおかげを下さるという事が分からせてもらう、ね。

 ですからね、そういうおかげの頂けれるチャンスというものは、だから本当はいつもはない、むしろ不如意な時、ね。 自分の思うままにならない時こそ、一つ神様がお喜び頂ける事を一つ本気で思い続けたり、祈り続けてごらんなさい。 もう絶対おかげになる。
ね、そしてなら自分の生活全体がです、神様にお喜び頂けるような私になれば、このようなおかげも頂けれるという確信も、また付いて来るです。 だから改まらなければおられない、磨いて行かなければおられないという事になってくるのです。

 どこが神様の機関に叶わんからこのような難儀になるのであろうかという事に気がついて来るのです。 ね、そしてギリギリのところ、障子一重がままならぬ人の身であるという事に翻然として気付かせてもらい分からせてもらい、ね、いわゆる悟らせて頂くところからです、ね。 それこそどんな支えな事でもです、成されて来る事が神様のおかげで成されておるんだという思い込みをね、いよいよ本当なものにさせて頂くところから、生まれて来るおかげ、ね。 そすと、そこからどういう事になってくると、信心も出けんのにこのようなおかげを頂いて勿体無しという事になる。

 ね、その勿体無しという、そういう生活こそが人間の本当の幸せ。 そこからお徳が受けられて来ると。 そこからね、いわば天地が自由になるほどしのおかげまで頂けて来る。
ちょっと矛盾のようですね、障子一重がままならぬ人の身であるというのが人間の実態だと。 けれども信心によってそこのところが分からせてもらうとです、ね、いわゆる天地が自由になるほどしの力まで頂けるという事になる訳ですよね、どうぞ…。

末永 信太郎